染め行く朱の色  





キャスティング

北島マヤ:瑠衣  速水真澄:遥  桜小路優・黒沼龍三:くるみん  月影千草:堕天使
姫川亜弓:moe  鷹宮紫織:硝子                               (敬称略)




「おまえを見る目、お前を抱く手、お前を愛するこの身さえあればよい」
「おまえさま」
 声から、呼吸する音から、その肌の毛穴一つ一つから、狂気にも似た熱を放射させている一人の
若い男。その熱にあてられたのか見つめられた乙女は身動きすらできず、柔らかな唇はただ相手を
呼ぶ。小さく、密やかに、震えるように甘く詠う。
“マヤちゃん・・なんていう目で僕を見るんだ・・”
 マヤが見つめている。自分を真っ直ぐに。夜の闇に黒く塗りつぶされたガラスのようなその大きな瞳 に、今は自分だけが映し出されているのだ。そう考えただけで脳に、四肢に。甘い痺れが絡み付いて くる。まるで川面に映る己の美しさに溺れ、水仙の花になってしまった少年のようにそのガラスの中の 自分をただ見つめる桜小路。
“今までの演技とは違う・・本当に恋をしているんだね、君は”
 蕩けるような恍惚に身を預ける彼を、まるで呪縛にも似た幸福へと更に追い込んでいくマヤの、甘く 優しい無邪気な残酷さが、耳打ちするように桜小路に囁きかける。
「いとしいおかた」
 立っていられない。全身の末端から、甘すぎる熱に侵されて痺れている彼を、その一言が完全に
堕とした。壁際に追い詰められ逃げられない状況で容赦なく胸の真ん中を撃ち抜かれたような痛みに 思わず瞳をきつく閉じながら呼吸も止まりそうな桜小路を救ったのは、一人の無骨な男の声だった。
「よし、そこまで!北島、いい感じだ。試演もこの調子で頼むぞ」
 
 現実に引き戻されたマヤはそれまでの阿古夜の仮面を惜しげもなく脱ぎ捨て元気よく黒沼に答え る。
「はい、先生。頑張ります」
 それを呆けたように見つめる桜小路は、彼女とは対照的に一真の仮面を外すことを惜しみながら
先ほどまでの熱の余韻に浸っていた。

「やぁみなさん、稽古は進んでいますか?差し入れもってきましたよ」
 メンバー全員を帰し、今は三人だけの稽古場によく通る快活な、ビロードを思い起こさせる響きの
バリトンが聞こえてきた。
“あ、速水さん”
 途端に高鳴るマヤの鼓動。まるで彼の存在でだけ奏でられる楽器のようにその高鳴りは愛らしい
メロディーをマヤの耳にいたずらっぽく運んでくる。
 一方の真澄もそのメロディーに共鳴するかのように胸を高鳴らせていた。ただ、その姿を一目見た
だけでスイッチの入ってしまう「愛しい」と言う想いのオルゴール。繰り返し繰り返すだけの、それでい て何度聞いても飽きることのない甘美な調べに、真澄は詞をのせていく。
“マヤ、なんてかわいいんだ、この手で抱きしめたい・・・だが・・・”
 断ち切らねばならないその調べ。その歌。欲求に負けて彼女に触れてはならない。どれほど心の中 がマヤでいっぱいだとしても、今はまだそのことを周囲に憚らねばならず、そしてそれは全て自分の
招いたことであり、そのせいでマヤにも淋しい思いをさせてしまっているのだ。そう、二人の想いが通じ 合ったあの日から。

「こんにちは、速水さん」
「おっ、若旦那、いいタイミングだな。北島も調子がいいし、休憩にするか!」
 マヤの声に、真澄の訪問を知った黒沼は、彼が手にしている袋と「差し入れ」の言葉に即刻休憩を
宣言する。勿論それはマヤの演技が突然によくなり、スムーズに稽古が進んでいなくては言えないこ とだが。
「速水社長、こんにちは」
 無邪気に桜小路も挨拶をする。
「おっ、主役お二人の調子はどうだい?」
 その言葉に答えるのはマヤではなく照れ臭そうな笑顔を満面に浮かべる桜小路だった。
「マヤちゃんが素晴らしい演技をしてくれるので、僕もそれに影響されていい一真を演じられそうです。 ね、マヤちゃんv」
“むむっ、なんという事を言うんだ、マヤの相手はお前じゃないのを早く理解しろ!”
 入ってきた時の陽気な表情はまるで蝋で固めたように真澄の顔に張り付いている。だが彼の心の
中では目の横に額から青いスジが何本も入っており、その目はまるでペンキでも流し込んだように白 一色だ。これはあくまでも彼の心象の表情であって誰にも見られることはない。もし見られたとしたら、 まさしく大都芸能の速水真澄ともあろう男が一生の不覚であろう。勿論今目の前にいるマヤにだって 見せることはできはしない。

「それは、頼もしい言葉だこと」
「月影先生。いつからこちらへ?」
 真澄の心象の表情と蝋で固めた現実の表情を打ち崩したのは聞きなれた女性の声と、その女性を 呼ぶマヤの声だった。
「これは、月影先生。お体の調子はいかがですか」
 我に返って本来の「速水真澄」を取り戻して問い掛ければ、それに応えて不敵な笑みを浮かべて
彼女は答えた。
「新しい紅天女が誕生するまでは、死にませんよ真澄さん」
 なるほど確かにそうだった、と真澄は思い返す。今までに、一体何度この人は死線を彷徨い命の
危険にさらされながら、その執着を支えに「死」と戦ってきたことだろう。その度に、その戦いでの勝利 を糧にしているかのように不死鳥のように甦ってくる彼女なのだ。もしかしたら本当に不死身なのかも しれない、などと冗談とも思えないような冗談が真澄の頭をふとかすめる。
「お元気そうで、安心しましたよ」
 半分本気、半分嫌味のような気持ちを載せた言葉を、月影は鷹揚に頷き聞いているだけだった。
それからマヤのほうに向き直るとこちらにもまたゆったりとした声をかける。
「さっき、ついたところですよマヤ」
 そうなんだぁ、と納得した表情のマヤの後ろから、黒沼が出てきた。
「月影さん、ようこそ」
「稽古を見学してもよろしいかしら黒沼さん」
 月影は彼に見学の許しを請うとマヤの顔を凝視した。一体自分の愛弟子がどこまで「紅天女」を掴ん でいるのか、やはり知りたいのだろう。
「歓迎しますよ。あなたの愛弟子の成長振りを見てやってください」
 少し前までの、己の悩みに飲み込まれてまともな演技どころか自分の心さえ保っていられなかった ころのマヤではないのだ。今の彼女の演技なら安心して誰にでも見せることが出来る。黒沼は何の
不安もなくそう応えることのできる現状に改めて安堵と満足を覚えるのだった。

「皆さん、ごきげんよう。わたくしも月影先生に誘われて参りましたの」
 そこに再び新たな登場人物が現れた。マヤと「紅天女」を争うライバル、姫川亜弓である。
「二人の紅天女がそろうとは、今日は運がいい」
 先ほど桜小路から受けた不快感を残しつつも気を取り直して明るく言う。これぞ正しい「大都芸能の 社長」としての「速水真澄」のあるべき姿だ、などと思う真澄。わずか前、理由も理性もなく突き上げて くる嫉妬にさいなまれていたことなどすっかり忘れてしまったのだろうか。
「先ほど亜弓さんの稽古も見てきました。素晴らしかったですよ」
「月影先生、ありがとうございます。今度マヤさんもぜひ見学にいらしたらどうかしら?」
「は、はい。そうですね。今度、見学させていただきます」
 亜弓はマヤの言葉を聞くと頷き、今度は真澄の方に向き直り、軽く頭を下げた。
「それから速水社長も先日は、差し入れありがとうございます」
「いえ、すばらしい紅天女でしたよ、亜弓さん」
 「紅天女」を巡って、立場は違えどもう何年にもわたる複雑な関係を築いてきた彼ら。黒沼はそんな 彼らの姿を離れた場所で見ていたが、何かを決めたようにふいにマヤに話しかけた。
「では、お前さんの師匠とライバルに今の出来を見てもらうとするか」
「あ、はい。先生。よろしくお願いします」
 黒沼の言葉にマヤはきりりと気持ちを引き締めると相手役の桜小路の顔を見た。桜小路も答えるよ うに頷くと、二人は向かい合い気持ちを高めていく。
「さっきのシーンをもう一度だ。始め!」
 その言葉が、一瞬にしてマヤを阿古夜に変える。
「いつもいつも見ていたいのだ、阿古夜・・・」
“舞台の上の僕の魂の片割れ・・マヤちゃん・・”
 マヤは阿古夜に。心はすっかり入れ替わっている。今はもう、「北島マヤ」ですらない。だが桜小路は 一真とシンクロしているに過ぎない。彼の心は一真の、そして一真の心は彼の心だった。
「いとしいかた」
“ああ、マヤちゃん。その熱い眼差しに僕は身も心も蕩けそうだよ”
「捨ててくだされ、名前も過去も、阿古夜だけのものになってくだされ・・・」
 マヤの言葉はマヤの言葉であってマヤの言葉ではない。そのことに気がついていないのか、桜小路 は禁断の甘美な毒を貪るようにその言葉に溺れていく。
「わたしはお前、お前はわたし・・・・・。お前を愛するこの身さえあればよい」
“そうだよ、マヤちゃん。君こそが僕の天女・・君さえいれば僕は何もいらないんだ”
「おまえさま」
 二人の演技を皆、食い入るように見つめている。それぞれ心に抱く思いは違っていても、その熱心さ は変わらなかった。
“なんて潤んだ瞳をしているんだ、どうして桜小路に・・・ちくしょう!”
 真澄はようやく最愛のマヤと想いが通じ合ったというのに相変わらず悶々と苦しんでいた。嫉妬の
迷宮に自ら進んで入り込み身を焼き尽くさんばかりの胸の炎の熱にいっそ快感さえ覚えているような 錯覚。そう簡単にはやめられない、これもまた禁断の甘美な毒だ。何よりも、依存性と中毒症の高い、 蝕まれることにすら喜びを感じてしまうような危険な毒に、知っていながらその身を侵されていく様を
官能を持って見つめる真澄。なんと厄介な男であろうか。
“マヤ、あなた...”
“マヤさん、以前恋の演技ができなくて、稽古中に泣いたことを聞いたけど・・・”
 胸に思うところがあってマヤを見つめているのは何も真澄一人ではない。月影は月影の、亜弓は
亜弓の思いをそれぞれ抱きながら目の前に繰り広げられている稽古を鋭い視線で見つめていた。
「そこまで!」
 不意に全員が、黒沼のその一言でそれぞれの思考の世界と芝居の世界から強引に現実の世界へ と引き戻された。
「いかがですかな、皆さん」
 黒沼は自信たっぷりの表情で彼らを見渡した。それはさながら大事な宝物を見せびらかした時の
子供のようにも見える。確かに黒沼は、自分を取り戻した今の、あのマヤの演技を見せびらかしたい 気持ちを抑えきれないのだ。それほどまでにマヤの演技は彼の期待通り、いや、期待以上の出来に なっているのだから。
「亜弓さんに負けない、素晴らしい阿古夜だったわよ、マヤ」
 珍しく月影が手放しで褒めてくれた。うれしさのあまりマヤの顔は真っ赤に染めてしまっている。それ は見ていてもほほえましい光景だった。
「マヤさんは、どうやら阿古夜の恋を理解したようですわね。わたしには、そう思えましたわ」
 亜弓は、今目の前で見せ付けられたライバルの演技と、その演技を褒める師の様子を見ながら自分 の直感を口にした。恐らく間違ってはいない直感を。
「え、はい。時間はかかったけど・・・やっと掴むことが出来ました」
 それに対してマヤは恥ずかしがって否定したりなどせずに正直にその事実を認めた。
「そういえば、梅の里で魂の片割れがと言っていましたが、マヤその人と想いが通じたのですか?」
 マヤと亜弓の会話を聞いて突然に月影が核心を突いてきた。思わぬ月影の言葉にさすがに今度
ばかりはうろたえるマヤ。しどろもどろに「あ、それは、その・・・」などと口ごもってしまう。だが、そんな 様子さえ愛らしい。やはり恋する乙女なのだ。
 そんな姿を見て、俄然張り切る男が一人。
“魂の片割れ・・マヤちゃん、もしかして・・。もしかして、それは僕のことなのか!?”
 言わずと知れた桜小路である。マヤが困惑気味にちら、と真澄の顔を見ていることにも気づかず、
その思い込みはとどまる事を知らず暴走していくばかりだ。
“嬉しいよ、マヤちゃん!!”
 一方のマヤは、真澄の立場を考えれば今ここで自分の「魂の片割れ」が彼であることを知られるわけ にはいかないことを十分にわかっていた。
“速水さん、助けて・・・・・”
 思わず彼に視線だけで助けを求めるが、真澄は真澄で、隠している二人の想いが見破られそうな
ことに慌てていた。
“みんな、マヤの気持ちの変化がすぐに分かったか・・・”
 思えばマヤは舞台を降りた途端に大根になってしまう。およそ隠し事に相応しくない性格なのだ。
よし、ここは何とか一つうまく誤魔化さなければ。真澄はいつもの調子でマヤをからかってみた。
「チビちゃんも大人の恋を経験したのかな?」
 ここで、「そんなはずない」といつものようにマヤに突っ込んで欲しかった。だがマヤは頭の中がいっ ぱいなのか彼の目論見に気づいてくれない。困ったな、と自分の発した言葉が白々しい響きで自分を 責めるのを聞きながらさて次にどうしたものかと考える。
「マヤさんにとっての魂のかたわれは、どなたかしら?」
「まぁ、桜小路くんではなさそうだがねぇ・・・」
 すかさず桜小路をけん制する真澄。亜弓の思いがけないつっこみを上手く利用できた自分を、褒めて やりたい。内心、鬼の首でも取ったかのように大喜びだ。桜小路がなにやら反論めいたことを言ってい ても全く気にならない。ならないはずだ。聞いてさえいないのだから。
「速水社長、どういう意味ですか?それは」
 桜小路の言葉は、勿論真澄以外の人間には聞こえていた。だが、その答えを真澄から聞ける人間 は誰一人いなかった。その時訪れたあまりにも意外な人物に、皆、そんなことなどどうでもよくなってし まったのだ。

「皆様こんにちは。こちらに真澄様がおいでになっていらっしゃるとお聞きして、お邪魔にあがりました の。真澄様は、いらっしゃる?」
 亜弓が絢爛豪華でありながら強さとしたたかさを兼ね備えたバラの花であるのなら、その声の主、
紫織は風にも当てず、過保護なまでに大切にされないと咲くことのできない、彼女自身が愛して止ま ない蘭の花そのものに見える。
「し、紫織さん?」
 同じように何の予告もなくやってきた月影や亜弓にも驚かされたが、紫織の訪問の驚きはその非で はない。それに今、誰よりも会いたくない人物なのだ。一言その名を呼ぶなり、マヤは絶句してしまっ た。
「おや、これは紫織さん、どうしてここに?」
 同じく真澄も驚いた。だが、さすがにマヤよりは人も自分も騙すのがうまい。可愛い、愛しいマヤと
会っている時に、絶対に会いたくない人物であるにもかかわらず、そんなことはおくびにも出さずに
真澄はさり気なく紫織に突然の来訪の真意を探る。
“あの人は確か速水社長の婚約者・・”
「あら、あなたは確か真澄さんの婚約者でしたわね」
 桜小路の、声にしなかった言葉を、月影がまるで代弁するかのように声にした。
“あら、速水社長の魂のかたわれの方がおでましね”
 確か盛大な婚約披露のパーティーが開かれたと聞いていたことを思い出す亜弓の心の声だ。

“ど、どうしよう。どんな顔して会えばいいの・・・”
 マヤは激しく動揺した。恋焦がれた真澄。一生想いは通じない。それでもいいと思いながらも彼が “婚約者”として紫織を大切に扱う様を見れば辛かった。苦しかった。悲しかった。それが今は一転、
彼に愛されているしあわせを手に入れたのだ。だが。それはつまり何も知らない、何も悪くない紫織 の、今も愛する真澄に愛されていると信じて疑わない紫織の、そのしあわせを掠めて取っていることに 他ならないのだ。罪悪感で彼女の顔がまともに見られない。
 そんなことなど何も知らない紫織は無邪気に真澄の問いに答える。
「温室の蘭がそれは素晴らしく咲きましたのよ。うれしくて真澄様にもお教えしたかったの。会社に
お伺いしましたらこちらだ、って秘書の方が教えてくださったのですわ」
“なぜこんなところまでくるんだ!水城君はなぜ教えてしまったんだ”
 紫織の答えに真澄は内心で叫び、何を考えているのかわからない水城を恨みつつ心の底から叫ん だ。だが、まさかその叫びを口にすることはできない。当たり障りの無い言葉で紫織にやんわりとここ まで自分を追ってきたことが迷惑であることを伝えてみる真澄。
「会社でお待ちいただければよかったのに」
「まぁ、真澄様・・・。恋する女心をおわかりになってくださらないなんて・・・。でもそこが真澄様らしいと ころですわね。ふふふ・・・」
“くっ、こんなとこまで!早く婚約破棄をしないとマヤを不幸にしてしまう”
 自業自得という言葉は、彼の辞書にはないのだろうか。自分のしてきたことをまるっきり棚に上げて いることに気がつかないのか、真澄はただどこまでも自分を追ってくる紫織にわずかながら恐怖さえ
感じているのだった。

“本当に艶やかに咲き誇る蘭のような人だな。速水社長にはお似合いだ”
 真澄の思いなど知ることのない桜小路は、二人並べばまるで完成された芸術品のように美しく見え る真澄と紫織の姿につくづくと見とれていた。
 だが、彼が本心から美しいと思うのは、愛しいマヤただ一人である。そのことを思い出しふと彼女を 見やれば、ひどく具合が悪そうではないか。
「・・!マヤちゃん、どうしたんだい?顔色が悪いようだけど・・」
「ご、ごめんなさい。ちょっと気分が悪くて・・・」
 マヤの表情はどこまでも辛そうで、見ている誰もが心配せずにはおられないほどだ。勿論真澄とて
それは同じである。
「大丈夫かい、マヤ!」
「は、速水さん」
 真澄に心配をかけたくない。真澄に迷惑をかけたくない。それがマヤが日頃から思っていることだ。 それは間違いない。だが、彼とお互いに想いが同じであることを知って初めて、紫織と会うのである。 さすがにマヤの動揺は激しく、締め付ける胸の痛みにに苦しめられてとっさに彼に助けを求めてしまっ た。
“マヤさん、どうかしたのかしら・・・!?”
 亜弓もマヤの身を案じた。だが騒ぎ立てればマヤが恐縮してしまうに違いない。女の子とはそうした ものだ。そんな気遣いで亜弓は心配しながらも黙って成り行きを見守ることにした。
「まぁ、どうされたの?マヤさん・・・。この暑さですものね。すっかり参ってしまわれているみたい・・・」
 紫織はお嬢様らしくおっとりとマヤの具合を心配している。
「マヤさんも私のようにステキな恋でもされれば、こんな暑さくらい平気になりますのに・・・。おかわい そうですわ」
 その言葉が引き金だったのだろか。桜小路が突然真澄に向かい、きつい表情を見せて責めるように 言い始めた。
「速水さん、お気遣いなく。マヤちゃんには僕がついてますから、あなたは婚約者の方とお帰りになっ たらどうですか?」
 皆、驚いて桜小路の顔を見る。その目はギリギリまで引きつり、唇は固く閉じられてまるで何かに
耐えるために食いしばっているかのようだ。名を呼ばれた真澄の顔を見れば、こちらも眉根を寄せ、
眉間に深い皺を刻んだ険しい表情になって睨み返している。まるで対立するように立つ二人の、その 周りを取り巻く空気は急に剣呑に変わってしまった。突然のことに紫織はひどく驚き、ショックを受けて いるようだ。その紫織に助け舟を出したのは亜弓。
「紫織さん、ご無沙汰しております」
 紫織は少しほっとしつつも、曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
「いや、チビちゃんの様子を見てしばらくここにいることにするよ」
「速水さん。大丈夫ですから・・・」
 桜小路に取り付く島も与えず言い放つ真澄。マヤは二人の雰囲気が悪くなったのは自分のせいと
ばかりにおろおろしながらも真澄を抑えようと訴えかけてみる。だが真澄はそんなマヤを無視して紫織 の方を片付けにかかった。
「紫織さん、僕は仕事があります。用件は分かりましたのでお先にお帰り下さい」
“マヤちゃんと仲の悪いあなたがいたら余計具合が悪くなるってことぐらい、どうしてこの人はわからな いんだ!”
 大切な婚約者を放ってまでマヤに執着する真澄に苛立ちを募らせる桜小路は声に出せない言葉を 心の中で叫ぶ。
「黒沼先生。気分が悪いのでちょっと外の空気を吸ってきていいですか?」
 居たたまれなくなったマヤは黒沼に助けを求めた。
「ああ、構わん。無理はするなよ北島。今、身体を壊したら洒落にならんからな」
 この剣呑な空気は確かにマヤの体と言うよりもその精神に悪そうだ。黒沼は演出家の鋭い勘で一瞬 にしてマヤの気持ちを察した。
「まぁ、マヤさん・・・。本当に大丈夫ですか?真澄様、ご自宅まで送って差し上げたらいかがかしら? 勿論私もご一緒しますわ」
 一人空気を読めない紫織に軽い絶望のようなものを感じながらもマヤは言い訳をする。
「し、紫織さん。私なら大丈夫ですから。・・・一人で帰ります」
「マヤちゃん・・・」
 健気なマヤに心を打たれた桜小路は一言呟くと意を決してマヤに申し出た。
「僕が送っていくよ。それなら安心だろう?」
 気のせいだろうか。「それなら」の部分に妙に力が入っている気が、真澄にはしてならない。この男と マヤとを二人っきりにすることはできない、との思いを強くする真澄だった。
「そうなさったら、マヤさん」
 あぁそれなのに。亜弓までもが桜小路とマヤを二人っきりにしようとするのか。
「桜小路くん。ごめんね。今日は、一人で帰りたいの・・・」
 マヤ自身、桜小路と二人きりになるつもりはなかった。勿論真澄に送ってもらうつもりもない。何しろ 今は彼の婚約者である紫織がいるのだ。彼女を差し置いて自分を送ってもらうことなどできるはずがな い。それは真澄を好きになってしまった以上、わきまえなければならないことだと常に自分に言い聞か せていることなのだった。
「では僕が送り届けます、大切な紅天女候補ですからね。紫織さん、方向が違いますので送ってから ご自宅に伺います」
 紫織が同行するというのをきっぱりと断って真澄はマヤのほうを見る。マヤはそんな真澄を必死で説 得しなければならない。こんな切ない思いをさせる真澄を半ば恨めしく思いながら、マヤは真澄に言い 聞かせるための言葉を続けた。
「は、速水さん。大丈夫ですよ。ちゃんと一人で帰れますから」
「だめだ、途中で何かあったら大変だ!」
 マヤは真澄を説得しようと、真澄はマヤを説得しようと互いに譲ろうとしない。そんな二人の様子を黙 って見ながら、亜弓は何かを感じていた。
“マヤさん、紫織さんが来てから何か様子がおかしいわ・・・”

「ところでさきほどちらっと見かけましたけれど。マヤさんの紅天女。とても素晴らしかったですわ」
 終わりを見せない会話に飽きたのか、不意に紫織が話題を変えた。
「あ、ありがとうございます。・・・紫織さん」
 だが紫織にはマヤのその言葉は聞こえていないのだろうか。一人、自分の思考に沈んでいる。
「あのうるんだ瞳・・・。どこかで見たことがあるような・・・?」
「マヤちゃんは本物の恋を手に入れましたから。そうだろう、マヤちゃん」
 今はもう、真澄とマヤの話に入っていけなくなった桜小路が紫織の話の後を繋げた。さり気なくその 相手が真澄であろうはずがないとけん制の意味を込めて。
「あぁ・・・。そうなのね、マヤさん」
「いえ。そんなことは・・・」
 もしや自分と真澄のことが知られてしまったのでは。マヤは激しく動揺している。だが、そんな様子も 桜小路には自分への想いを抑えているようにしか見えないのだった。
“僕という魂の片割れを、君はようやく見つけることができたんだ・・”
 ・・・・・・・・・・・・・・・勘違い炸裂である。後で思い返せば、今この時が彼にとって一番しあわせな時 だとわかるだろう。だが勿論、今の彼にはそれを知る術はないわけだが。
「どこかで見たことがあると思ったら・・・。あれは鏡に映る私の瞳と同じなのですわ。真澄様を想う時の 瞳と・・・」
 こちらはすっかり「恋する乙女」な自分に酔っている。晩生なお嬢様の恋はなかなか手に負えない。

“マヤの魂の片割れは俺だ!”
 紫織の発言のせいで、先ほどの阿古夜を演じたマヤの、あの熱く潤んだ瞳が脳裏に再現され、真澄 は激しく気持ちを乱された。
「チビちゃんは言うとおり、一緒に帰るんだ、いいか!」
 嫉妬のせいでマヤを縛り付けたい思いに駆られた真澄は、有無を言わさず彼女を従わせることに決 めてしまった。
「え、でも・・・」
 本当は真澄と二人っきりになりたい。人に隠さなければならない想いなら、関係なら、なおのこと
二人きりになりたい。それがマヤの素直な気持ちだ。だが、今それだけはできない。紫織と言う婚約 者が目の前にいて、彼女を置いて自分を選ばせるようなことを彼にさせるようなことは断じてできない。 マヤの想いもまた、真澄以上に頑なだった。
 そんな二人の様子を、先ほどから亜弓はじっと眺めている。見つめてさえいれば何かをつかめる気が するのだろうか。

 どこまでも空気の読めない紫織は、真澄とマヤとの、誰も入り込めないような雰囲気に臆することなく 入り込んでいく。それは紫織が真澄の婚約者であるという自信からなのか、それともただ単に鈍いだ けなのだろうか。
「それにしても・・・。マヤさんの恋のお相手・・・。「魂の片割れ」は一体どなたなのかしら?真澄様、ご 存知・・・?」
「うっ、それは・・・」
 鈍いがゆえの鋭さで突っ込んでくる紫織の言葉に思わず絶句する真澄。
 その時。
「速水さん、イイカゲンにしてください!マヤちゃんと犬猿の仲のあなたがいると、彼女だって良くなるも のも悪くなるってことが分からないんですか!?」
 決して広いとは言えない稽古場に突然の大音声が響き空気を振るわせた。桜小路が叫んだのだ。
「さ、桜小路君。ち、違うの。速水さんは、悪くないの・・・」
“マヤ、なんていい子なんだ”
 真澄は突然の桜小路の怒声に驚きながらも、マヤの健気な言葉に胸を震わせていた。
「マヤちゃん、そんなに気を遣わなくてもいいんだよ! 速水さんが君に何をしてきたのか、僕はよく知っ ている!」
「君に何が分かる・・・」
 苦しげにうめくような声で絞り出す真澄。まるで、言葉を一言発するごとに若さと生命力を一緒に吐き 出しているかのようだ。
“速水さん”
 マヤはそんな苦しそうな真澄の様子に胸を痛めつつ、何もできない自分が悔しかった。人に知られて はいけない、忍ばなければならない恋だから、恋しい人の元に駆け寄ってかばうことさえできないのだ から。そんなマヤの様子をじっと見つめる亜弓。一体何を感じているのだろうか。

 突然の叫び声とその後のやりとりに、紫織は初めて桜小路に気がついたようだった。つまり、今の今 まで彼のことは念頭にも眼中にも入っていなかったのだろう。それは果たして紫織が自分の見たいも のしか見られない性格だからなのか、それとも桜小路という人間の持つ特性なのかは即座に判断し かねるところだが。
「まぁ・・・。あなたは一真役の・・・。どうしてそんな風に仰るの?真澄様にひどいじゃありませんか・・」 「・・・申し訳ないですが、あなたの婚約者は冷徹な仕事の鬼として知られている人なんですよ。仕事 のためならどんな酷いことでもやってのけるんですから」
 紫織の言葉に、彼女がつい先ほど言葉を交わしたにも係わらず今初めて自分の存在に気づいたらし いということにすら、桜小路は気がつかない。それほど彼は気持ちが昂ぶってしまっているのだった。
「その度にマヤちゃんは泣かされてきたんだ!!あなたの行いの影で、僕がどれほどマヤちゃんを
慰めてきたか、知ってますか?速水さん」
 桜小路の言葉は、まるで蔓を伸ばしきった茨のように真澄に巻きついて彼を痛めつけた。無数の
鋭い、先端が少し曲がったそれらの棘は、その一つ一つが彼の肌にしっかりと食い込み身をよじって 逃れようとする真澄から決して離れまいと凄まじい執着でしがみついてくる。動けば動くほどに彼の肌 に刺さりこんだ棘が皮膚の下の肉に新たな傷の道を作っていく。「言葉」とは、これほどまでに痛いも のだったのか。顔を歪めて苦痛に耐える真澄。そんな彼を見ることも辛いマヤは、耐え切れずに思わ ず大声を出してしまった。
「桜小路くん。やめてー」
 桜小路が真澄を責める、その言葉をもうこれ以上聞いていたくないマヤの声に、真澄を助けたいとい う心からの叫びを亜弓は聞いた気がした。
「マヤさん、今日はもう稽古をやめて速水社長に送っていただいたらいいわ」
 今、どうしてかはわからないがマヤを真澄と二人っきりにした方がいいと亜弓は直感した。この状況 にマヤをこれ以上置いておいてもただ彼女を混乱させるだけだろう。
「あ、亜弓さん」
“ありがたい、亜弓さん”
 真澄はありがたがっているが、マヤのほうでは混乱してしまった。まさか亜弓までもがそんなことを 言うなんて。マヤはもう、どうしていいかわからなくなっているのだ。
 
 一方紫織は興奮した桜小路をなだめるように落ち着いた声で話し始めた。
「人の噂ぐらい、知らない私だと思っていらっしゃるの?桜小路さん。でも、それは所詮ただの噂・・・」
 それからふいに心に浮かんだ疑問を口にしてみる。
「それよりも、マヤさんの恋のお相手は、もしかしてあなたなの?桜小路さん」
「え・・!」
 紫織のその言葉に、先ほどまでの怒りの熱が同じ熱さを持って瞬時に恋の熱へと変わっていく桜小 路。
「そ・・それは・・」
 口では戸惑っている素振りを見せながら内心はもう、勘違いモードまっしぐらだ。
“マヤちゃん、言ってもいいのかい?”
 熱い眼差しでじっとマヤを見つめる。
「もうやめてください」
 マヤはぽつりと、誰に言うともなくこぼした。
「速水さんは、何にも悪くないんです」
 その言葉は、桜小路に言っているのではない。この場にいて、反論さえできずに苦しんでいる、い や、今までずっと苦しみ続けてきた真澄に向かって語りかけている言葉だった。
「マヤちゃん・・・」
 あまりに意外な言葉に驚く桜小路。ただマヤの名を一言呼ぶだけであとは彼女の真意を掴めずに黙 ってしまった。
「本当は、とても優しい人なの・・・」
「まぁ。マヤさんもわかってくださるのね?真澄様の本当の優しさを・・・。私たち、仲良くなれそうね? マヤさん」
「そ、そうですね。・・・紫織さん」
 無邪気に喜ぶ紫織の様子が神経を逆撫でしたのか。またも桜小路の怒りにスイッチが入ってしまっ た。
「優しい、だって?この人が!?」
 詰るような響きで真澄をにらみつける。

 この状況は、一体どうしたことだろう。冷静に考え直す亜弓の頭に紡ぎだされたか細い一本の糸。
だがよく見れば同じような糸はあちこちにあるではないか。注意深く目を凝らし、一本一本を探し出し、 見つけ、切れないように慎重に拾い上げて丁寧に紡いでいけば、自分の中に一つの結論が形作られ ていくのを、亜弓は感じた。
「たとえ舞台の上では一真であっても、運命の人とは違うことはあるわ。違います・・・?月影先生」
“亜弓さん、もしかして、あたしたちのことに気がついたんじゃあ・・・”
 それだけは避けねばならないと思ってきたのに。亜弓の勘のよさにマヤは狼狽した。呼びかけられ た月影の方では、それまで黙って成り行きを見守っていたが、実は内心“ふふふ、これは面白いことに なっているようね”等と思っていた。勿論誰も気がつくことはなかったわけだが。
「そうね、亜弓さん」
 にっこりと亜弓に笑いかける月影。その視線の端にはマヤと真澄が密かに映りこんでいる。二人の 会話にマヤと桜小路は激しく動揺した。 
“月影先生まで・・・”
「! マヤちゃんの魂の片割れが僕ではない・・と?」
 だが心が激しく揺れたのは彼らばかりではなかった。冷静な表面とは裏腹に真澄の慌てぶりはそれ 以上だ。
“むむっ、月影先生と亜弓君はマヤの相手がオレだと分かったのか?!”
“・・・亜弓さん”
 同じ思いで亜弓を見つめるマヤと真澄。そんな二人の思いを知ってか知らずか月影は記憶の中に
沈み込みながらその目は遠くを見つめている。
「私の魂の片割れは一蓮だったわ」
「先生・・・」
 一体、人はどこまで人を愛せるものなのか。女と言うものは、一体どこまで一人の男を、ただ一人の 男を愛し続けることができるのだろうか。「壮絶」の二文字こそが相応しい。そんな愛し方でただ一蓮
だけを愛し続けた師の言葉に、それ以上何も言うことの出来ない亜弓だった。
「・・・・・・・おかしいですわね・・・・。マヤさんの「魂の片割れ」が桜小路さんでないのだとしたら・・・。 それでは一体誰なのかしら・・・?真澄様はご存知?」
 事情を知らないからか、紫織は亜弓が深く感じ入った月影の言葉に心を動かされることもなかった
らしい。彼女なりに流れを読んでふと沸いた疑問を、少女のように単純に真澄に投げかけた。一体、
自分で考えるということはできないのだろうか。
「誰・・なんだ?マヤちゃん・・君の想い人は・・」
「さ、桜小路君」
 紫織の疑問は桜小路も抱くものだった。自分がマヤの魂の片割れだと思っていた。あの仄かに吐息 を混じらせながら囁く声が、あの涙をこぼさんばかりに潤んだ瞳が、あの差し伸べる指先の手弱かな 震えが、あの控え目に染める頬の紅が、ただ「一真」にだけ向けられているものとは到底思えない。
もし亜弓や月影の言うとおり、それらが全て向けられている先にいるのが自分ではないと言うのなら、 それは一体誰だというのだ。
“まだ今の段階ではいえない!!!”
 桜小路のこぼした言葉に胸の奥で真澄は叫ぶ。もしできることならば。今すぐにその相手こそ自分
であると名乗り出たい。胸に、腕に、しっかりとマヤを抱き、自分のものだと、この愛しい存在の全てが ただ自分一人のものなのだと全ての人々に知らしめたい。だが、それは少なくとも今は適わないこと
なのだ。紫織との婚約を解消し、ただマヤを愛する一人の男として世間に向かうにはまだ準備が必要 だった。今はまだ、その準備さえ整ってはいない。
「どうしても、今は言えないの・・・。その人に迷惑がかかるから・・・」
 真澄の表情を盗み見れば、まるで声を失う苦い毒薬を飲んだかのように苦しげな顔をしている。呼吸 さえ乱し、こぶしを握りしめて苦痛に耐えているのか、じっと体を固くして身動きすらしない。世間に隠し 通さなければならない関係。自分も辛いが彼も辛いのだと今改めて知った。なんとしても彼を守らなけ れば。マヤは決意を新たにした。
「マヤちゃん・・!言えない様な相手なら・・・そんな奴はやめて僕にしなよっ!」
「や、やめて。桜小路君」
 自分の中に高まる恋の熱。その熱に浮かされ今や最も大切にしたいマヤの気持ちさえ思い遣ること のできない桜小路は彼女の腕を掴むと強引に自分の体へと引き寄せ、まるで逃がすまいとするかの ように強く抱き締めた。必死に抵抗するマヤを抑え込んでいる自分の力に気がつきもしないのか。
“僕がいる・・そうさ、ずっと君の傍には僕がいたんだ・・!”
 まるで自分を守る呪文のように繰り返す心の言葉。繰り返すたびに腕に込められる力は強さを増す ばかりだった。
 だが、そんなことを真澄が許すはずもない。マヤが他の男に抱き締められているという嫉妬よりも
むしろマヤが涙を浮かべながら嫌がっている、そのことの方が真澄には重大だった。守らなければ。
“な・なんて事を!!!桜小路のやつめ!”
「やめたまえ、嫌がっているじゃないか」
 心で思った瞬間、言葉が出ていた。その声の思いのほかの強さに、亜弓も驚き真澄を見上げる。
「あなたに言われる筋合いなどありません!関係のない人はひっこんでいてください!」
 「関係ない人」。この言葉が真澄を打ちのめした。関係は大いにある。だがそれを今言葉にすら出来 ない臆病な自分。先ほどから握りしめているこぶしに入る力がさらに強くなる。
「お願い。離して。桜小路君」
 一番大好きな人の目の前で、他の男に心ならずとは言え抱かれている。それがマヤには辛い。だが それよりも辛いのはきっと真澄なのだ。自分の辛さなど問題にならないほど彼の辛さを思ってしまう。 マヤは涙混じりに桜小路を説得した。紫織も驚いて桜小路をなだめようと声をかける。
「ど・・・、どう、されたの?落ち着いて?」
「これは僕とマヤちゃんの問題なんだ!!」
「それは、どうかしら・・・?桜小路くん」
 だが誰の声も、亜弓の声さえももう、桜小路には届かない。彼の耳には、最早どんな言葉も聞こえな い。マヤをきつく抱き締めながら真澄に向かって叫ぶと、今度は自らの腕の中で怯えるマヤの顔をじっ と見つめた。
「・・マヤちゃん・・だったら、教えてくれよ。君の好きな奴を・・そうしたら・・放してあげる」
「それは・・・」
 混乱の中、思わず真澄の方を見るマヤ。そこに彼女は信じられないものを見た。なんと彼がこちらに 向かって動き出すところが見えたのだ。
「やめたまえ、桜小路!」
 真澄は有無を言わさぬ力強さで桜小路からマヤを救った。二人を強引に引き離してしまったのだ。
「ありがとう。速水さん」
「大丈夫か?マヤ」
 見詰め合う二人に桜小路はふいに毒気を抜かれてしまったらしい。真澄に語りかけながら、その
言葉は自分の心の中に向かっているようだ。
「・・速水さん・・どうしてそういつも絡むんですか?」
 亜弓は少し離れた場所に佇み腕を組むと事の成り行きを見守っている。
「普段は冷静なはずのあなたが、マヤちゃんがいる時にはいつも邪魔ばか・・り・・・」
“・・・まさ・・か・・?”
 何かに気がつき始めた桜小路。追い討ちをかけるように月影が真澄をからかう。
「あらあら、そんなに紅天女が大事なのかしら真澄さん。あなたにとっては亜弓さんが紅天女になった 方がいいのじゃなくって」
「いや、月影先生、二人とも大切な紅天女候補だからほっておけないんです」
 真澄はマヤを見つめつつ、まるで上の空で月影の言葉に答えた。
“・・・・・・・・・・?どうしたのかしら?これではまるで・・・?”
 紫織までもが何かを感じているようだ。だが、それがなんなのか、まだ紫織にはわからない。
“マヤちゃんが速水さんを見る目・・。あの目を・・・僕は知っている!!”
「どうやら、わたしたちはお邪魔のようね」
「・・・そう・・ですね・・」
 亜弓の言葉に力なく答える桜小路。そう。あの目を彼は知っている。あれはマヤが自分を、いや、 「阿古夜」が「一真」を見つめる目だ。それは「恋する乙女」の目。それが演技をしていない今、自分に ではなく真澄に向けられている。その事実。認めないわけにはいかない。
  
 突然真澄は頬に強烈な熱を感じた。そして周囲にいる人間は耳にしたのだ。
 ばきぃっっ!!!
「きゃぁ・・・っ!」
 紫織が目を覆って悲鳴を上げた。真澄は驚き、桜小路に抗議した。
「な、何をするんだ、君は!」
「きゃあ、速水さん。大丈夫ですか」
 駆けつけたマヤを安心させようと真澄は軽く微笑む。
「大丈夫だよ、マヤ」
 睦まじい二人の様子。桜小路は皮肉な笑みを片方の頬にだけ貼り付けると今自分が万感の思いを その拳にこめて殴り飛ばした男のそばに歩み寄る。
「僕はどうやらとんだ道化だったらしい。道化は道化らしく、さっさと退場しますよ」
 それから今度は黒沼の方を向き直り、淋しげな瞳で彼を見た。
「黒沼先生・・明日は・・・稽古に出ますので・・・今日は、帰らせてください」
「ああ、わかった。明日は構わずしごくから覚悟をしておけ」
 静観していた黒沼は全てを理解しているのだろう。傷付いているであろう桜小路に余計なことは言わ ず、黙って彼の帰宅を許した。
 一礼し、帰っていく桜小路に、最早誰もかける言葉も思いつかない。ただ見送るだけだ。

「月影先生、わたしとマヤさんはどうやら魂のかたわれにめぐり会うことができたようですわ」
“速水社長、マヤさんを早く幸せにしてあげて!”
 亜弓はまるで独り言のように呟いた。その言葉は、果たして月影に届いていたのかどうか。
 一方マヤは真澄のそばに行くと、ポケットから出したハンカチで彼の口の端から出ている血をぬぐっ た。
「ありがとう、君を送っていくよ」
「はい、速水さん。お願いします」
 マヤに対する真澄の優しい態度。紫織は何か不安を感じてしまう自分に戸惑っていた。
“おかしい・・・。おかしいわ・・・。どうして?どうして真澄様は私の方を見てくれないの・・・・?”
 真澄がなぐられても口を切って血を流していても、足がすくんでしまって自分からは動くことができず にただ見ていただけの紫織。そんな紫織を真澄が見てくれるはずもないことに気がつかないようだ。
「ではみなさん。失礼します。紫織さんはご自分の車で帰れますね」
 真澄が自分を振り向くこともなく言い捨てる。紫織はひどく傷付いていた。
“真澄様・・・・・・・・・?どうして・・・・・・・・・?”
「はい・・・・・・・・・・。わかりました・・・。どうぞ彼女を送って差し上げてください・・・」
 だが代わりに出てきた言葉は、あくまでも聞き分けのいい言葉だった。どこまでもお嬢様でしかない 紫織は、これだけの人の前では自分の感情をぶつけることができないのかもしれない。
「では、チビちゃん行こう!」
「は、はい」
 もしかしたら。精一杯真澄を思う自分の言葉が彼に届くかもしれない。もしかしたら。真澄はやはり
マヤではなく自分を選んでくれるかもしれない。だがそんな淡い期待も彼の言葉であっさりと壊されて しまった。それにしても・・・。
“マヤさんのあのうれしそうな表情・・・・・・。まさか・・・?”
 何かに気がつきそうな紫織。マヤは彼女に対して申し訳なさでいっぱいになってしまっている。
「し、しおりさん。・・・ごめんなさい」
“彼女を送り届けたら、鷹宮家に婚約破棄の申し出にいこう!”
 そんなマヤの様子を見て真澄はようやく決意する。準備がなんだ。もうこれ以上マヤに辛い思いを
させるわけには行かない。目の前にいる紫織には悪いが、もう、自分の心を偽ることはでできない。
 紫織はその時、ふいに何もかもを理解した。そうか。そういうことだったのか。どうしてことんな簡単な ことに自分は今まで気がつかなかったのだろう。自分の愚かさを彼女は恥じた。
“そう、なのね・・・・・・・・。わかったわ・・・・・・・・・・・・・・”
 全てを悟った紫織は、それは優しい、余裕の笑みでマヤに向かって声を掛けるた。
「いいえ、いいのよマヤさん。あなたは高級な車にはあまり乗ったことがないのですものね。そんなに 高級な車に乗れるのがうれしいなんて。子供っぽくて可愛いわ」
 それから真澄の顔を見ると何もかも承知したような微笑みを浮かべて話しかけるのだった。さも、
「こんなお子様のお相手はお疲れになるでしょうね」と言わんばかりの表情で。
「どうぞ真澄様。送って差し上げてね。うふふ」
 どうも紫織はなにやら勘違いをしているらしい。それでも敢てそのことには気がつかないフリをする
真澄。実際にはどうであれ、表向きには婚約者の快諾を得たのだ。彼はマヤを連れ出すために皆に
別れを告げた。
「みなさん、失礼します」
 その言葉の、まるで続きででもあるかのように紫織も別れの挨拶を告げた。
「それでは私も帰ることにしますわ。折角綺麗に咲いた蘭の様子が心配ですもの。それではみなさん、 ごきげんよう・・・」
 相変わらず余裕の表情で、表に待たせてある車へと向かい稽古場を、しあわせそうな紫織は優雅な 身のこなしで踊るような足取りで出て行った。
 そんな彼女には見向きもせず、亜弓はマヤの顔をじっと見つめる。
「マヤさん、あなたにはできない紅天女をわたしはやってみせるわ。それだけは覚えておいてね」
 “魂のかたわれ”との結びつきを確かなものにしたマヤは間違いなく亜弓にとって強敵である。自らを 鼓舞するためにも、亜弓はマヤに宣言するのだった。
「亜弓さん。わたしもあなたには負けない紅天女を必ず、やりとげてみせるわ」
 勿論マヤとて亜弓に負けるつもりはないし、負けない自信もある。今はもう、真澄への思慕に苦しめ られていた頃の自分とは違うのだ。彼に恥ずかしくない「紅天女」を演じたい。彼に喜んでもらえる「紅 天女」を演じたい。二人のライバルは今、互いに向き合い力の限り闘うことを誓った。その姿を頼もしく 見つめる月影。
「亜弓さん、いい覚悟ですね、期待していますよ。マヤ、亜弓さん、試演を楽しみにしていますよ」
「はい、先生。頑張ります」
「ええ、是非期待をして待っていて下さい」
 マヤ、亜弓。二人は月影に精一杯の戦いを誓う。
 その様子を見つめていた真澄も思わず二人の若いライバル達に激励の言葉を送る。
「二人のすばらしい試演を楽しみにしているよ」
 その言葉に頷く亜弓。そしてマヤはいつもの自信のなさそうな様子は微塵も見せず、胸を張って彼に 答えるのだった。
「速水さん。あなたに喜んでもらえるような紅天女を必ず演じて見せます」
「ああ、期待しているよ」
 微笑みながら答える真澄に、マヤはなおも胸の思いを、その決意を告げる。
「あなたにすべてを捧げる紅天女を、きっと・・・」
「ああ!」
「速水さん」
 マヤは真澄を見つめ、真澄はその目を見返しながら優しく強く、その手を握りしめる。
“まさに紅天女の恋はわたしの恋”
 誰を想うのか。亜弓は二人を見ながら人知れず胸を焦がしていた。
 目と目を交わし手と手を握り合う二人。ほほえましく見つめる月影、亜弓、黒沼の三人。五つの影を 窓から差し込む夕日が赤く染めている。恋の色とはこんな色なのだろうかと。ふと心に過ぎる真澄で
あった。この恋の行く末は、この先どこに落ち着くのだろうか。だが必ず幸せになろうと決めた真澄。
その決意を信じるマヤ。二人の未来は間違いなく沈み行く夕陽の赤ではなく、明け行く曙の赤になる だろう。透き通る紅の色に、溶けていきそうな夏の夕刻のことだった。




<Fin>




今までのなりチャはマヤと真澄が結ばれてハッピーエンドv・・・というものでしたが、今回は趣向を
変えて、「恋人同士となった二人が、周りの人々に相手が誰かを詮索される話」という設定で行いまし た。結果として・・・大荒れでした(;^_^A  最初はコメディ路線だったのが段々泥沼へと発展。
速水さんには是非この後に「マヤを幸せにする」宣言をして、桜を一発殴り返して欲しいものです。

●瑠衣さん
主役お疲れ様でした。桜小路と紫織に挟まれ、動くに動けなかったマヤちゃん。速水さんも救いの手を 伸ばすことができず・・・という窮地に追い込まれてしまいました。まるで原作の未来を見ているかのよ う・・・(^_^;) 次にやるときには思いっきり弾けた役をやりたいですねvv

●遥さん
遥さん演じる嫉妬深い速水さんに、「両思いになってからもマヤちゃん大変だろうなぁ」とちらりと思って しまいました(^^ゞ 立場上、どうしてもカミングアウトできない速水さんに原作の問題の奥深さを感じま す。最終的に、今の状況を打破しようという彼の決意が物語をしっかりと締めてくれました。

●堕天使さん
月影先生は全てを理解して見守っているんでしょうねぇ。速水さんにさりげなーく突っ込むあたり、人が 悪い♪ 「皆、若いわねぇ」と影でほくそ笑んでいる姿が目に浮かびますわ。

●moeさん
場をしっかりと見つめ、状況を判断していた亜弓さん。マヤや桜小路の感情が昂ぶると、ザブンと冷や 水を浴びせてくれました。それはもう、足元にバケツでも用意してあるかというほどに。冷静に展開を
見据える第三者の視点が、話の流れを円滑にしてくれましたv

●硝子さん
紫織さん役、楽しそうでしたね。最初から最後まで空回り、桜小路と共に道化役だった紫織さん。
ラストまで勘違いしているのが可笑しくも哀れです。
今回のなりチャの小説化は大変だったことと思います。原因は桜小路大暴走にあるかと・・・・(;^_^A 
綺麗に纏めて頂いてありがとうございました!